受け入れる。という事は、絶望による諦観か、はたまた希望のための忍耐なのか。
刺すような暑さに包まれる、夏の始まり、日にさらされたサドルに腰かけてペダルを回す。その時、日に焼ける事をいとわず、汗をかく前に到着しようとするのか。はたまた、日焼けを前提に、最小限に汗を抑えようとするのか。また、その時どちらが楽なのだろうか。
汗をかかないのも、疲れないのもいいことだ。だが、対策のしやすさは汗に軍配が上がるだろう。
じゃあ、対策できないときは?
それを予期しておらず、猛暑に背中を焼いてしまったときは?
受け入れるというのは、とても楽だ。
日焼けが楽ならば、受け入れる覚悟さえあれば、どれだけ焼けようとも、どれだけ皮膚にメラニンが充填されて黒くなろうとも、まぁ、どこかのシンガーソングライターみたく、自分でそれをネタにしたりできるのではないだろうか。
じゃあ、日焼けが苦ならば?
どれだけ受け入れても、日に焼けていく自分の姿がおぞましく思えたら?どんなに漕いでも、死ぬほど漕いでも、皮膚の皮がはがれ落ちてゆく感覚が、止まらないものだとしたら。
存外ケチな話だ。なぜならば「受け入れる」という言葉の表現をした時点で、以前まではそれをなんらかの理由で受け入れられなかった。もしくは、今の今まで何も情報を持ちえない、何も知らない事象を、いきなり受け入れることになるのだから。
では、受け入れた。として、どうなる?
次第に剥がれ落ちていくだけだ。
余裕という名の精神が、記憶という名の心情が。べりべりと音を立てながら、黒く、剥がれ落ちていく。日に日にすり減る余裕を知覚している間、記憶は想起されることもなく消えていく。そうして、剥がれ落ちた脳機能を補うために別の媒体に縋り始める。
そうして張り裂けそうな心を抱えながら剥がれ落ちたそれらを見下してまた一から皮膚を寄せ集める日々が始まる。
誰かがそれを見てくれているのならそれほどうれしいことは無いと思う。そのように喜の感情に捉え変えてから受け入れる。すっからかんな私の内側にそのやさしさに似た何かを詰め込んでまた剥がれ落ちないように大事に包むんだ。
そうして人からもらったものばかりが胸の中に残って私の種になる。
頂いたものを包んで覆って埋め込んで、剥がれ落ちて。
また包んで、覆って、埋め込んで、剥がれ落ちて。
いつしか、誰でもないあなた方から頂いた、誰のものでもないわたしが、微々たる変化を伴いながら、脈動している。愛も絆も感情も無機質な義務感とひとりでの使命感に塗りつぶされて腐り、憶測の銀蠅が真実の果肉をむさぼることなど一生無い。
あなたに僕は見えるか。
あなたは何が見えるか。
あなたが見ている者は。
僕は何を見ているのか。