頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

木古

 雨を受けた春の輝きが脳裏に鮮明に残っている。あれだけ泣いていた空は晴れ渡り、額に流れるのが汗に変わった。

 あれだけ咲いていた春の花々も、夏の暑さに萎れて、残ったのは細々と枯れるのを待つばかりで、その結末を辿る花は、黒く伸びる影を受け入れるように俯いている。

 私は咲いている花よりも、枯れてゆく花を見る。黒く萎んだ花を、あるいはとうに花をなくした植物を。一年後にまた咲く多年草も、今年限りで枯れていく一年草も、一度は枯れてゆく。そこからまた返り咲けるか否かはその種子によるもので、彼ら彼女らが咲き誇る時を、人間は季節と呼んだのかもしれない。

 私は枯れた花を美しいと思う。周囲からよく可笑しいと揶揄される。それでも、枯れゆく花を愛でるのは、私が咲いている姿より、枯れた姿を評価されたいから。

 生きていれば色んなものが手元に残り、人の目に映り、評価される。そして評価されたのちに、その「色んなもの」は落ちてゆく。必要だったものも、そうでないと思ったものも、ひとひらの花弁のように散っていく。落ちた赤は風に吹かれて消えていく。それが散ったことすらも感じさせないままに。

 色んなものが散った姿は、きっとみすぼらしく荒んだ姿だ。今まで生きてきた。頑張って生きてきた。色んな感情を胸に生きた。その後に残るのは全盛期を過ぎて黒く皴がれる姿の自分だ。乾燥してひび割れた頬に杖を突きながら、いつかの日、咲き誇っていたそれらを思い返しては、胸に刻んだ日々に泪を流したい。

 そんな、美しい枯れ方をしたい。