紅葉の散った木々、薄暗くぼんやりと先の見える暗闇。微かに冬の到気を告げる風。
こんなに寒くはなかったはずだ。
あの夏をまだ覚えている。響いて残るような暑さと雨のもたらした湿気に支配されていたあの八月とは打って変わって冷え込んで、淹れたココアの白い湯気が眼鏡を曇らせた。曇りを拭った眼鏡のレンズは確かに綺麗なはずなのに、なぜか、あの日の君が付けた指紋が、チラついて仕方がなかった。
その出会いは午前二時、深夜のコンビニバイトだった。荒れた茶髪と泣き崩れた化粧の彼女の姿は怪談の類のようにも思えた。
そんな彼女は決まった時間に現れた。同じような様相で、毎日持って来るのは一つのペペロンチーノと五四〇円。怯えるバイト仲間の代わりにレジに立っては会計を通した。彼女も私を認識してからは私のレジに立つようになり、私も彼女が来たらレジから動かないようになっていた。
そんな日々が続いたのも八月下旬までで、長く続くわけはなかった。
変わったのは私の方だった。
理由は極めてシンプルで、夏休みが終わってしまったからだ。
大学生。というには特に大きなイベントも無く、そのほとんどをバイトに費やした私は半ば強制的にシフトを変更された。学業優先である事と稼ぎすぎが大きかった。
けれども忙しいのまた事実。あの時間の少し前。深夜手当の出ないギリギリの時間帯まで、私は結局働かされていた。
しいて言うなら少しだけ、帰る時間に余裕が出来た所くらいだ。だからこそ、見慣れたコンビニの弁当を前に、私は贅沢にも長考を重ねていた。
最初こそ目移りの多い弁当棚も、続いてしまえば見飽きていて、尚且つ労働直後特有の疲労が身体を襲っていた。
要するに、油断していた。という訳だ。
視界の中にそれを入れるまで時間はかからなかった。歩み進める足を、伸ばした手を、止めることは無かった。
それなのに、止まってしまったのは。同じタイミングのそれを見つけてしまったからだろう。顔を上げればぐちゃぐちゃの彼女が居た。しかもその日は唇から血が滲んでいて、尚更怪談じみていた。
同じ目的を果たそうとする人を見つけると、人間は奇しくも譲り合ってしまう。たとえそれが目についたものであっても、その状況に直面した際の気恥ずかしさに眩み戸惑う。
「あっ」
初めて聞いた第一声はそれだった。驚きの声を隠し通した私はとっさに身を引いた。譲るようなしぐさをして、その場を後にした。ふと逃げ出したくなったのだ。
しかし、それでも不自然に思われないようにそっと早歩き。コンビニを出てからは息を整えながら、紛らわす様にスマートフォンを起動した。困惑と混乱と夕食。色んな考え事が渦巻く脳みそを整理する。
「待ちなよ」
そんな私を彼女は更にかき回した。振り向けばそこにはペペロンチーノと牛丼を持った彼女が居た。
「牛丼と引き換えに、泊めてよ」
午前二時を回っていた。
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彼女との関係性は惰性的に続いていた。彼女は変わった。時間も弁当の数も。その後に私が家に帰ると、決まって明かりが着いていて、入ってみれば涼しい冷房と、整った美しい彼女が待っていた。
家に人が居る。その事実が私の生活を変えた。生活の一部に彼女が居た。起きる頃には居なくなっていて、寝る頃には決まって彼女は居た。彼女の使っている物々が流れ込んできて、私は彼女と同じ匂いを纏っていた。
バイトをしているのかを尋ねた。「春を売っている」と冬のような声で返って来た。
「それは大変そうだね」
「ここが気楽なの」
別に、春を売っているからといって追い出すつもりではないのだけど。彼女はそう感じたのか、ある種の媚びを売るような声を出していた。
「好き」「嫌い」の感情を言いだす様な関係性では無かった。同じくらい、あの時間の惨状を問い正すことは出来なかった。
元より、変化なんてものは一切なかった。望んでもいなかった。ただ終わりを待っているような、そんな気分だった。
それでも、彼女はそうでも無かったようだ。
「親と、喧嘩してるの」
「……知ってる」
驚きはしなかった、働き方を鑑みればそのような喧嘩になるのも容易に想像がついた。その日の牛丼はやけに堅かった。
「どうにかしなくていいの?」
「どうしようもないの」
その後に続く言葉を飲み込んだ。牛丼の残りは捨てた。
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それからも私から問いただすことは無かった。聞くにも繊細な話題であり、詮索する物ではないと感じていた。
彼女としてもそれ以上、その事に関して口を開くことは無かった。そうして僕たちは極めて日常に近い何かを過ごした。
それが今までの日常とは少し違うと分かっていながら。そうであろうと努め続けた。
努め続けて一週間。日常の騙し合いは彼女との会話をきっかけに終わりを迎えた。彼女自身が朝、家の中に居た。
「お仕事は?」
「辞めることになったの」
言い合いの対立。その果てに折れたのは彼女の方だった。
「だからもう、これまでのように泊まる事は出来ないの」
「……これから会うことも?」
不思議な程に、自然に、声が出た。終わりを待っていただけだったのに、いつしか、気付かぬうちに、すがるように。言葉を発した。
「出来ないよ」
そしてそれは、すぐにかき消された。辺りを見渡せば、あれだけ溢れかえっていた彼女の物々はどこにもありはしなかった。
訪れてしまった変化、時間も何も決まっていない唐突の終わり。何も言い返す事が出来なかった。彼女を止める権利など私にはなかった。
「泣かないの」
「泣いてなどいないさ」
そういって彼女が手を伸ばす。流れていない涙に触れることは出来ない。けれど彼女の指は濡れていた。
「もう、泣くんじゃないよ」
濡れてない親指で、彼女は優しくレンズを押した。
弁当のゴミが減った。電気水道ガスの料金が減った。家の中はずっと暗くて、季節は既に移り替わっていた。
あれから、彼女が私の前に現れることは無かった。
いや、一度だけ見かけたことはある。
それは駅の中。私が就職で旅立つあの日。向かいのホームに立っていた一人の女性は間違いなく貴女だった。
髪を黒く染めて、茜色の眼鏡をかけて、光を反射しているかのような白い肌。その横に立つスーツの男に見覚えは無かったが、彼女は確かにその面影を残していて、その男との間柄も、察してしまった。
葉が散る八月、越えて長月。
白い湯気がまだ貴女になる。
指紋はまだまだ取れそうにない。