頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

「今を生きるという事」を精神科で語った話。

 本日、朝七時からバイトへ走った私は、その実バイトの事など眼中になく、その後に控えるイベントで緊張しており、早くも胃痛に悩みながら焼きそばを焼いておりました。

 しかし、その時間はいつの間にか過ぎ去っており、神の様な暖房のきいた店内を後にする時間はすぐにやってきました。どうしようかと悩む私に店長は「明日は9時ね」とだけ。働き過ぎではないでしょうか。

 とにもかくにも私はそんな店を後にして、坂道を駆け上って帰路へとつきまして、そのまま向かいました。

 私の今日の出来事。それは私が良く行く精神科での講話でございました。

 

「お願い。先行体験ということでやってほしいの。貴方の顔は皆も知っているし、よく遊んでいるからさ。気が楽だと思うんだ」

 

 確かに、私は薬の処方をしてもらう間、暇つぶしに託児所に入ってはよく遊んでいます。仮面ライダーのベルトに驚いたり、プリキュアを皆と見たり、モノレールの組み立てにスマートフォンのゲーム、果てには宿題を教えたりまで、色んなことをやっていたこともあり、私は「よく来る変な人」みたいな感じで浸透していましたし、私もそのくらいでいいかな。と思っておりました。 

 だからこそ、このように「先頭に立って何かを語る」という事は想定していませんでした。私自身子供と遊んだりすることが好きで、楽しければそれでいいよな。と思っていたし、それで相手も笑ってくれるならwin-winだな。と考えておりました。

 けれど、いざ頼まれるとやってみたくなるのが私と言うものでした。

「いいですよ」の一言から、私はずっと考えておりました。話すテーマは自由で貴方が伝えたいこと。と言われていたものですから。何を話せばいいんだろう。とか、ふざけてもいいのかな。とか。色々考えては眠れぬ日々が続きました。

 そしてそのまま、色々頭にイメージは浮かべど決定打に掛けるという事で形にしていないままにその日はやって参りました。何もしてないけどどうしようか。と思いながらスマートフォンを開きました。

 その時でした。

 友人がさも当たり前の様に私の過去の創作を掘り返しておりました。古めの音源とか言いながら。

 恥ずかしくて死にそうになりました。それだけはいけない。心がね。やばい。語彙力無くなるレベルでヤバいの。 

 という一つの混乱が起こりまして、私の緊張は一旦置いといて過去の創作を消さねばならないと思い至り、創作垢を掘り起こして削除に回りました。

 

 ふと、そんな時に思いました。

 

 ああ、こうして生きてた時期もあったんだな。と。こんな火消しに飛び回っている時に思いたくもない事実なんですけどね。 

 私は、大学に上がった直後からとある出来事による後遺症があり、記憶が不安定になるのです。数日に一度のペースで記憶が抜け落ちる身でございます。その記憶を取りこぼさぬように日記を書いています。もちろん勧められた日から、たびたび書いていない所もありますが私はこうして繋がって生きて来たのです。

 

 少し昔の話をしましょうか。登場人物は三人。男の子とその彼女。そして私です。

 

 その三人は非常に仲良しでして、読書が好きな彼女に合わせて本を読む。ボクシングが好きな男の子に合わせて皆でボクシング。歌が好きな私と一緒に歌を歌ってくれる。 

 何をやるにも一緒に行動している三人組は小学校の頃からの仲で、二人はいじめられていた私に対しても手を差し伸べてくれた優しいお方でございました。

 当時、私はまだ若く。自分が養子であることを知るのは高校生の頃。それまではただ、軽くいじられ、授業参観で親からも殴られ、そこからエスカレートしていくというなんともひどい有様で。やりかえそうぜ。とボクシングの道に引き上げてくれたのがその男の子でした。私は嫌だけどやる。と言ったのだけ覚えています。

 そこから力を付けてアマチュアとしてやっていった私は、基本的に何をやっても落ち着かない。力が付かない。と言う人間でございましたが、ボクシングだけは色々成績を収めることに成功いたします。そして、そこで男の子はこう言いました。

 

「俺、プロになりたい」

 

 中学校に上がるころで、彼はその時から私より強く、彼が一位で私が二位。ということは多々ありました。しかし彼は非常にセンスがあり、見込まれていたこともあって一旦上京して行きました。「彼女をよろしくな」という男の約束を私は今も守れているか、今となっては自信がございません。

 その頃になるといじめはとうに飽和しており、むしろ「いじめられっ子の変な奴」として孤立しており、小学校とは違う環境でも、同じ状況にございました。そんな中でもあまり彼女との関係性は変わらず、私としても「あいつの彼女だし」という目で見守っておりました。

 私が本の面白さ。そして「国語」という学問の面白さに気付いたのも、ちょうどこの時期にあたります。ボクシングの無い日にはずっと図書室に通っており、その事で国語の先生に目を付けられて、課外授業の様になっていたのでございます。

 

 そこから何も無く高校時代。近くの奴らがいない場所へ。という事で選んだ高校に彼女と二人。ボクシングは現実を見た上でフィットネスくらいの感覚になっていました。

 国語の先生と話すことが膨らんでから、私は何かと「先生」という職種が好きになり、高校になってからは放課後、日替わりで違う教科の先生の元へと足を運んでいました。

 

 そんな時、ふと彼が帰ってきました。

 東京に居るはずの彼が似合わない眼鏡を付けながら。

 

「いきなり帰って来たな。プロの道はどうしたんだ?」

 

 帰って来たのは引退の二文字でした。

 

 肺の怪我をしたようでいきなり余命について言い始めました。その頃から既に話は少し噛み合わず、どこか表情も虚ろでいて、パンチドランカーのような症状も見受けられてたと思います。

 とにもかくにも、すぐさま病院にへと行きました。事情を聴いて余命を告げられ、私と彼の彼女は呆然としていました。

 そんな私達とは違って、彼は生き生きとしていました。

 

「最期くらいはゆっくりとすごそう。学生じゃないからこそ出来ることもある」

 

 チューブに繋がれながらそう言う彼の言葉。

 

「今からでしょ」

 

 そうとしか返せませんでした。

 先生たちに相談すると、先生たちは大量の宿題を出してきました。

 

「これから月ごとに宿題を課すから、20日までに提出しなさい」

「はい」

「人の為に考えて動けるって、凄いことだぞ」

「いいえ、私はただ優しいだけが取り柄の男です」

 

 なんて会話を交わしてから、高校を去りました。

 その先生たちの采配を私は全うしました。彼の病室に入り浸っては言葉を交わし、彼が眠りについた間に宿題を書き進めました。

 けれど、日が経つにつれて落ちて行く筋力。痩せていく体。口から出てくる言葉にも活力は感じられなくなっていました。

 

 しかし、それがある時、変化し始めました。

 

 それが余命一年と宣告され始めてからの事。「病み垢」という類のアカウントをtwitterで創設したのをきっかけに、色んな人と繋がれるじゃん!と一人。楽しそうにしておりました。

 

 とはいえ、身体はその元気について行けそうになく、またどんどんインターネットにのめり込んでいく彼の姿に、私と彼女の間にはどんどん不安の心が根付いておりました。名前の持つイメージが悪く、疑い深いものがあったのです。

 

 そこで、私が一旦アカウントを作り監視してみよう。という運びになりました。いわゆるROM垢というもので、あくまで見ているだけ。干渉して関係性が悪化しては困るとのことでの判断でした。

 

 そしてその時から、彼女は学校生活とお見舞いの生活の両立が厳しくなり、体調を崩すようになりました。気丈に振舞う彼女は目の下のクマを化粧で隠す様にしてまで、来てくれていました。

 

「元気じゃないと元も子もないし、私がここにいるから大丈夫。あいつのことは任せてよ。それに宿題が分からなくなった時に聞きたいからさ。土日だけ来るとかはどうかな」

 

 それに気付いてから、私はすぐさまそう言いました。そう言わないとそのうち彼女も倒れてしまいそうで、ならまだ運動していた私が動いた方が良いだろう。と思っての言葉でした。

 

 そこからは、彼女も土日のみの参加となりいよいよ私一人。睡眠を削って宿題をこなし、昼は彼のリハビリやお散歩の手伝い。そして病み垢の監視。

 睡眠不足による苛々、絶え間のない倦怠感、そして何より自分達には見せてくれなかった元気な姿。どちらの姿が正しい彼の姿なのかと言う判断はとうにできない程疲れており、今更助けを乞うにはあまりにも背負いすぎていて、一人でした。

 

 そんな生活を続けて二年。ボクシングはすでに辞めており、宿題提出もギリギリ。先生たちからも心配されるようになって、その気遣いに牙を剝いてしまって、私は私ではなくなっておりました。

 彼は彼でもはやスマートフォンすら触らなくなり、散歩もリハビリも、読書すらもしなくなり、日に日に弱っていきました。

 そしてある日、ついに彼は遺書を書き始めるようになりました。

 私はそれを止めることが出来ませんでした。死が決まっている人間の行動を生きているだけの人間に止める権利はありはしませんでした。

 けれど、その行動を見て、彼自身が自分の死に気付いているのかな。とも思いました。それまで死ぬことに対して供える事など一切していなかったからです。

 

 そうして走る筆を眺めながらうつらうつらと睡魔に誘われている時、私が思ったよりも先に筆が止まり、彼がこちらを向いていました。なぜか怖くなって顔を上げた私の目に映ったのは、始めて見た彼の涙でした。

 

「眠りたくない。起きないかもしれないから」

「じゃあ、俺がいつだってお前を起こせるように起きててやるよ」

 

 それは彼に向かって発した安心させる言葉であり、自分に向かって刻み込んだ呪いの言葉でもありました。

 その言葉を聞いてから彼は眠りにつきました。涙の痕も拭わぬずに。

 その言葉を発してから私は眠りませんでした。眠らぬよう座らずに。

 朝が来て彼が起きると、私も起きている。彼がご飯を食べる時、私は寝てしまう事を恐れて何も食べなかった。シャワーで眠気を流し、歯磨きで口の中の嫌な粘り気を取った。彼が眠るのを見守って、立ちながら宿題をして、朝が来たらまた何も無かったかのように一日が始まる。

 

 そう振舞い続けた「優しいだけが取り柄の男」は4日目、気を抜いてしまいました。彼の眠る顔を見て、椅子から転げ落ち、冷たい床に伏しました。

 その日、同じくして彼はこの世を去ったそうです。ナースコールを押していました。けれど、彼は間に合わず、私は救命救急患者となったようです。

 

 起きたのは二日後の事、隣に居たのは彼では無く彼女でした。思い出したのは呪いの言葉でした。

 

「六日間。よく頑張ってくれたね。貴方だけでも、よく戻ってきてくれたね」

 

 その言葉で私は確信しました。

 もう彼はこの世にいないのだと。

 

「ごめんね」

「一人じゃやっぱり無理なんだよ」

「……うん」

「私の事も尊重してほしかった。あの日、切り離さないで欲しかった」

「うん」

「貴方に背負わせたくなかった。なのに背負わせてしまった。本当にごめんなさい」

 

 彼女がそう言っていたように私は聞こえていました。私の体の機能はまだ不完全で、普通の生活が送れるようになるのに一ヵ月かかってからの退院でした。

 

 その二週間、彼女は一度とも姿を見せませんでした。

 

 嫌われてしまったのかな。と不安になりましたが、とにもかくにも学校に行くことにしました。そこに行けば彼女が居るだろう。と思ったからでした。

 

 しかし、そこに彼女の姿はありませんでした。久しぶりと声を掛けてくれる名も覚えていない同級生、懐かしい図書室の本の香り。抱きしめてくれた先生。

 

「彼女は少し前から休学中だぞ」

 

 そう言われてから、私は懇願して先生に事の次第を聞くと、「お前の方が知っていたのではないのか」と言われてしまいました。

 そこで、彼女の親御さんに電話を掛けました。久しぶりと言う聞きなれた言葉から彼の話まで、色々した後に彼女のことを聞きました。

 

「ずっと前から精神病院にいる」

 

 そう言われて、急いで彼女の家へと向かいました。一か月のブランクは体力を奪い取っていて、肩で息をしながら走って、親御さんと合流して、私は彼女の元へと辿り着きました。

 

 窓辺に立って、彼女は黄昏ていました。黄金色の夕焼けに照らされる彼女の姿は鮮明に焼き付いて、単純に美しいと思ってしまいました。

 けれど、振り返ったその顔は何かが違いました。

 私を「知らないもの」といった顔で見ていました。

 

「元々、繊細な子で疲労や心労が出やすい子だった」

 

 その言葉で、私が覚えていること。いうなれば「私の歴史」は最後になります。それ以降の「私の記憶」はずっと日記に綴られているだけの記憶で、私が語るにはあまりに経験の薄い話でございます。

 

 ただ、Twitterというのは「その時の私」を素直に表している最たるもので。その時の名残なのかは知りませんが、私の番になった時にはすでに「病み垢」や「創作垢」など様々なアカウントがあり、そこから「私の生き様」を見ることが出来ました。

 

 さて、現代の話に戻りましょうか。

 

 

 

 

 さて精神科。講話を目前にして黒歴史を消しまわる男は、その時にようやく話のイメージを見つけました。

 

「今を生きるという事」

 

 繋がって生きている私。されど、その一区画ずつは互いに違う人間で、身に覚えのない黒歴史に身をよじらせることだってある。

 そして、それはかなり特異な事で恐らく私だけが語れる事。

 だからこそ語ろうと思いました。

 

 成人式以来のスーツは少し小さくて、無理矢理袖を通して成長を感じました。

 多目的ホールの一番前、皆の座っている前に立ち、ジャケットを脱ぐ。ネクタイを外す、シャツも脱いで見えたのはでかでかとアンパンマンがプリントされたTシャツ。

 意外と笑ってくれるもんだから、緊張感は上の空。空気が一気に和んで、私の話しやすい環境になってくれた。

 

 ここから、話を始めました。

 

「今を生きるという事」

 

 それは決して消すことの叶わない第一歩の連続。一歩一歩踏みしめて歩いてゆくからこそ人間は成長し、自分で立つことが叶う。

 

 その時、ふとその軌跡を振り返った時。胸を張って人に言えるような道を歩こう。

 

 僕らは今、普通の人から見たら踏み外しているように見えるかもしれない。

 

 けれど、最初に間違いに気付けたからこそ、今から修正できるんだ。その間違いは間違いであると同時に伸びしろであるのだ。胸を張れ。その失敗に頭を抱えるのではなく、正解に向かって手を伸ばし続けろ。分からない事を分からないままに。というのは一番やってはいけないんだ。

 

 伸ばしてくれれば、掴めますから。

 

 僕の事は知っていますね。色んなことを経験して、多少なりとも無茶をして、今では数か月前を思い出せぬ身体へとなってしまいました。

 

 だからこそ、記憶を失い始める前の歴史を僕は持っています。つぎはぎだらけの私の人生だからこそ、その始まりを語る事は容易なのです。 

 

 では、僕が言いたいことは何なのかを言います。

 それは絶対に「優しい」という言葉をはき違えないでください。という事です。

 

 そのやさしさは自分勝手な物ではないでしょうか。相手の事を考えていますでしょうか。自分の力量をしっかり踏まえた上で優しき手を差し伸べられていますでしょうか。

 

 そのやさしさは「自己満足」になっていませんか。相手の事を聞かず、ただ自分の中にいる「相手」を思って、「相手の意思」を無視した自分本位のやさしさになっていませんか。

 

 人を憂うと書いて「優しい」と書くのです。

 憂うというのは、心配する気持ちの事。思いやりとも言うね。

 だからこそ、空回らせてはいけないんだ。

 

 私は彼が好きでした。

 私は彼女が好きでした。

 私の持っていない物を持っている彼らに恋をしていました。

 

 そうして、私は彼女たちのために、勝手に考えた気になって、当の本人の意思も知らぬままに振りかざしてしまいました。

 

 それは極めて自分勝手でした。

 

 そんな私の最期は、好きなものも自分の記憶も、何もかもを全てを失ったことでした。

 

 こんな男にはならないでください。

 

 って話をアンパンマン出しながら言った所で説得力はないと思うんだけど、まぁ、こんな服を着ながらこうして話せるくらいになるまで、三年かかりました。ということなんです。

 だからこそ、貴方なりの優しさ。貴方にしかない優しさをしっかりと与えられるようになってください。

 

 と言った所で私の話は以上になります。長くなってすみませんね。

 皆さん、風邪などにはお気をつけて良いお年を。