先生が好きだ。
昔を語って様になる歴史の先生が好きだ。
言葉の尊さを書く現代文の先生が好きだ。
人間についてを描く倫理の先生が好きだ。
世界の広さを広める英語の先生が好きだ。
親身になってくれる担任の先生が好きだ。
そんな先生たちの元へと、私は昼休みに日替わりで通っていた。学問を話す先生ではない、日常を話す先生を求めて。
歴史の先生は言った。事実のすり合わせこそが歴史の成り立ちである。と。
現代文の先生は言った。言葉は世界で一番使われている発明だ。と。
倫理の先生は言った。人のことを考える故に未熟な学問なのだ。と。
英語の先生は言った。興味に貪欲になって学んでいけ。と。
担任の先生は言った。君は君らしくあれ。と。
結局、先生たちは日常は語らなかった。もしくは学問に没頭する姿こそ、先生たちにとっての日常だったのかもしれない。
けれど、話すことは楽しく、ずっとずっと通っていた。
そんな時だった。「なんか先生みたいな話し方だよな」と言われたのは。
それを嬉しく感じた。先生は好きであり憧れだったから。「気のせいだよ」と言う私の顔は緩み切っていた。
それから大学に入ってからは非常勤の哲学の先生の元へと通っていた。話を交わすのが楽しかった。知識の衝突の味をしめた。周囲にはまた同じようなことを言われた。
しかし、そんな日々は2年で終わりを告げる。先生は急遽、来なくなった。別の大学に移ったのか、どうなったのかはよくわからない。何も知らされずに居なくなってしまったし、その時には私も就活で通わなくなっていた。
けれど、面接練習の時に先生との会話の経験は本領を発揮した。交わした知識は言葉の裏で説得力として働いた。
そんな時だった。「先生と話しているみたいだ」と、言われてしまったのは。
私はひどく輝いていたのかもしれない。
その輝きを考えざるを得なかった。
だってそれは、決して私の輝きでは無いのだから。
己が輝いていたのでは無い。貰ったものが果てしなく輝いていただけの事だ。
ひどく醜い月だった。太陽からの輝きを己のものだと思い込んで、いざ無くなれば真っ暗闇。
「君は君らしくあれ」
その言葉すら、今や紙面の上辺だけ。
私はどう振る舞っていたのか。
私はなんだったのか。
分からぬまま消えゆくのだろう。
夢に浸って、他人を重ねて。生きて。生きて。生きて。忘れて。探して。消えて。消えて。消えて。
こうして私はまた、私になる。