頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

天使の羽。

 それは確かに落ちていた。

 砂塵舞う小さなベランダで、とうに干からびてしまった植物の前で、寂れた物干し竿に引っかかって、その存在を示していた。

 それは、小さな小さな白い羽。光を放ち、綿のような質感を持った羽。その持ち主は恐らく、大きく空を飛ぶ天使達の物だろう。

 大きく空を飛んでいる。なぜ飛んでいるのかは誰も知らない。知りえない。コンタクトを取ろうとした人間を見て、彼らはすぐに距離を取る。

 危険がないと判断すれば、気にしない様子で。悠然として飛んでいる彼ら彼女らを、人々は見上げることしか叶わなかった。

 そんな彼ら彼女らの羽が、小汚いベランダの真ん中に落ちていた。

 私は手すりの方に立ち、退屈しのぎに隣の家を眺めていた。

 天使の羽。この世でも片手で数えられる程度しか存在しない宝物。それは巨額の富を生み、所有したがゆえに命を落とした者もいる。

 そんなことがあったと。知っているからこそ興味がない。

 だからこそいつものように隣の家を見ていた。隣の家は小さなぼろ小屋で、そこで意気揚々と暮らす人々の姿は見ていて感心する。応援したくなる。どうにも天使の羽が離れない。

 天使の羽から目を背けるために隣の家を見ている。

 気にしない振りをしていて、そのカモフラージュとして隣を見ている。

 そんなことは無いのだと頭の中で否定していても、一度そう考えてしまうとどうにもそうであるかのように考えてしまう。

 それがどうにも、嫌だった。

「すみませーん!」
 久し振りに大きな声を出した。心のもやもやを取り除くために、摘みとったそれを掌に。その掌を太陽に。かざして見れば輝く右手、通り過ぎてゆくだけの影。これもまた含めていつも通り、天使たちにとって人間は眼下の群れくらいの存在に過ぎないのかもしれない。

 足元で再び枯れた花などには目もくれず。眩しい日の光を手で遮りながら、通る影に見せつける。枯れた花なのはどちらなのだろうか。

 そんな風に考えて居た時、ふと日の光が弱まった気がした。

 それが影の来訪であるという事に気付いたのはすぐの事。

「一体君はどうしたの?」
「て、天使の羽が落ちてたから、返そうかと思って」

 顔を見ることができなかった。ひたすらに無垢な輝きだった。初めて白を知覚して、その眩しさに目が眩んだ。来るとは思ってなかった。

「確かにこれは、天使の羽さ」
「空を謳歌する天使の羽。人が欲する不死の羽。命を増幅する輝きの羽」
「人間からすれば垂涎の一品だよ」
「どうやら、そうみたいだね」

 枯れてしまっていた花の色が、その言葉を裏付けた。
 綺麗な綺麗な赤色の花。繊細な花弁が一筋に花開き、ベランダに彩りをもたらした。

「君にはこれが要らないのかい」
「僕の趣味じゃない」
「うってつけだと思うけど」
「残念だけれど必要ないな」

 返した言葉は溶けていく。触れた手はきっと暖かかった。

 見上げた空に戻り行く背中だけを、僕は見送った。

「じゃあ、これは厚意に甘えて一旦持ち帰ってみることにするよ」
「ええ、お願いします」
「君も来たらいいのに」
「どうやらまだ、無理みたいだ」

 そう言ったが、もう何も戻ってこなかった。
 空を見上げてみると、青空だけが広がっていた。

「何がうってつけなんだか」

 生を謳歌する天使の羽は、再び空を駆け抜けて、いずれまたどこかで振り落とされるのだろう。

 考えを重ねる度に、心に実りが去来する。

 見えなくなって、振り向いた。視線の先には集るハエ。

「僕にはもう遅すぎる」

 もはや何も無い何かがあった。

 

 それは確かにそこに居た。
 目を覚ましたらそこに居た。
 帯びている衣服が男性用の着物であることから男の人が経っていること分かる。そしてそれと同時に、背中から僅かに見えている羽が人間ではないと物語っていた。

「貴方は誰で、何しにここへ?」
「以前会ったじゃないか。といっても、君は今と同じ様にうつむいていたから、私の顔なんか見ていないと思うけど」
「……じゃあ貴方は先日の天使さんですか」
「そうだけど、人と話す時は顔を見て話さない?」

 と言われても、幽霊の身である僕に彼の姿は少々眩しすぎる。

「ごめんなさい。まだ人の顔を見て話すのは慣れていないもので」
「まぁ、僕も君も人ではないから、こういう会話もありだと思うよ」

 じゃあ言わなくても良かったんじゃないか。なんて心をしまい込んだ。

「ところで、何しに来たんだ」

 そう言うと、何かを思い出したかのように彼は着物の懐に手を突っ込んだ。最低限と言わんばかりの痩せ細った身体が垣間見えたと思ったら、白い輝きが姿を現した。

 あの日、ここに落ちていた天使の羽だった。

「神様の元に行ってみたんだけど、落とした天使も分からないし。羽の落とし物なんて誰も興味も無いからって突き返されちゃって」
「だから拾った君の元へ返しに来たんだ」

 その言葉が呑み込めなかった。元の持ち主、天使たちに返したつもりの天使の羽が、人間どころか死んでしまった幽霊の元に戻るとは思ってもいなかった。

「言っただろう。必要ないって」
「うってつけだと僕も言ったよ」
「だからそれのどこがうってつけなのかが、僕には分からないんだ」

 命を増幅させる羽。持ち主が語るのだから本当にそうなのだろう。だが、それを鑑みた上でも僕には必要のない物だ。巨額の富を活かす身体も、増幅させる命すらもありはしない。

「僕にあるのは、このベランダと腐り果てた死体だけなのだから」

 天使の方を向くのが、ふと気まずくなって。目を背けた。

「またそうやって目を背けたね」

 掛けられた声には少し、嘲笑を感じた。

「でも、その目の先にも人はいるだろう?」
「何を言ってるんだ……」

 そう言われて気付いた。また気付けば私は隣の家を、ボロ小屋の方を見ていた。カモフラージュでも何でもない。無意識のうちにそちらの方を向いてしまっていた。

「何に使うかは君の自由さ。そこまで干渉するつもりはないよ」
「どうやって渡せって言うんだ」
「君が渡す必要はない。ただ、見つかる場所に落としておけばいいのさ」
「どういう意味だ?」
「見てるだけの日々は終わりだってことだよ」

 そう言うと天使は空へと昇っていく。着物の裏から出て来た羽が大きく開いて空を駆ける。

「待ってくれ」

 そういってようやく、私は顔を上げることが出来た。見えたのは男性とも女性とも取れない中性的な笑顔だった。

「君が来ることを、待っているよ」

 そう言って飛んで行く影を、やはり見送る事しかできなかった。

 

 数日が経った。

 隣のボロ小屋は人望に恵まれていたようで、盗みや殺人などの事が起こることも無く、無事に莫大な富を得た。

 それでもそこはボロ小屋で、人々の生活は変わってはいなかった。

 その生活を私もまた変わらずに眺めていた。

「気は済んだかい」

「まぁ、粗方は?」

 あの日、天使が空へと帰った後。私はすぐにベランダを下りた。ガラス窓をすり抜けて、内側の留め具を外してから天使の羽を持ち出した。

 久し振りに見た屋内はおびただしい数の血の痕ばかり。強いて言うならその色が参加によって赤から黒に変わった事だろうか。

 祖父が残した天使の羽。その羽をめぐっての争いは酷く醜く、ベランダに閉じ込められた長男は、その中で誰にも知られる事無く一生を終えた。

 そんな長男が残り続けていたことも、誰も知らない。

 久し振りの大地は酷く歩きにくかった。見つかりはしないはずなのに、見つかるのを恐れた私は早足で隣の家の庭に躍り出た。

 青い空だった。爽快な風になびく洗濯もの。それらを支える物干し竿に私は天使の羽を引っかけた。最初に見た時と同じように。

 それから隣の家で声が上がるころには、私はベランダへと戻っていた。

 そこから隣の家の、いつもとは違う一面を見て楽しんでいた。

 久し振りに退屈ではなかった。
 

 それからずっと、私はベランダに居る。なんだかんだ言って、この空間が一番丁度良い。これ以上の広さは少し落ち着かなかったし、血の痕なんてもっての他だった。

「じゃあ、後は何が残っているのさ」

「さぁ?多分、何も無い。何も望んでいないって感じがする」
「達成感。みたいなものじゃないって顔だね」

 今の気持ちを、私は表す言葉が見つからなかった。

「それじゃ、君はまだここにいるつもりかい?」
「それも、いいのかもしれないな。ずっと行く末を見守り続けるってのも。まぁ変な話だけどさ」
「なんだい。酷く曖昧な言葉しか出てこないじゃないか」
「しっかりと示す言葉が見つからないのさ」

 そう言うと、天使は少し呆れたような顔をしていた。もうあの時のような眩しさを感じることは無かった。

「そんな顔するなよ」
「お、ようやく顔を見てくれるようになったね」

 中性的な顔。とあの時は言ったが、話の口調や着物なども考えるとやっぱり男性だったようだ。

「慣れて来たって事だよ」
「じゃあ、もうそろそろこっちに来てもいいんじゃない?」

 前にそう言われたことを、そう言われてみて思い出した。

「そうだな」

 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

「やけにあっさりだね」
「ああ、僕自身も驚いてる」

 差し出された手を握ると、身体が宙を舞う。何年もいたあのベランダが遠のいてゆく。いつまでも見ていた隣の家が小さくなってゆく。

「ああ、そういう事か」

 ふと、合点がいった私に天使はすぐさま振り向いて問いた。

「ん?どういう事だい?」

 

 ようやく言葉がまとまった。

 

「死ぬにはいい日って事だよ」