頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

海の中の向日葵

「ねぇひまり。おばあちゃん家に行って来なよ」


夏も終わりを迎え始め、セミよりトンボがウザったらしく思える頃に、母が一番ウザくなった。


「なんで今言うかな」


私だって始業式も一週間前に控え、残りの宿題を済ませる予定も立てていた。そう決めていたのだ。


「いいじゃない、お願いよ」


母は何か言いにくい理由を持っているようで、私はその理由を知っていて。


「分かったよ。行けばいいんでしょ」


それをあえて聞かずに、私は折れた。

ずっと言われるよりは、おばあちゃんの家で勉強した方が良い。


「ありがとう!おばあちゃんによろしくね!」


喜ぶ母の姿が嫌に歪んで見えた。


「よろしくなのはおばあちゃんじゃないでしょ」


なんて声は、きっと届きゃしない。

買ってしまった往復切符、乗ってしまった列車の座席。窓の向こうを流れる向日葵はもう俯いていて、哀愁を漂わせていた。


私には姉がいた。


とても綺麗で、ピアノが得意で、でも数学は嫌いで、明るい性格だった。

そんな彼女がこの世を去ったのも、暑い暑い夏の日だった。

海に入って、そのまま流されてしまったひまりは2日後、海の中で見つかった。遺体は水死体。水を吸ったひまりは「見るも無残」という表現の通りだったようで、大人たちはそれを隠して葬儀を行なった。


けれど、それを隠し切れなかった大人がいた。


……母だった。


涙を流し、獣のような叫び声を上げたまま、母は突然葬儀を飛び出した。

必要最低限の人間だけで続きを行い、他の者は捜索にあたった。

幸いなことに近くの向日葵畑の中に母は居た。

しかし、その時から母は歪んでいた。


私をそう呼んだ。


「ひまり」という「姉の名」で。


母の中で私はひまりになっていて、私は心の海の中で溺れて死んで燃えていた。


それからというものの、私は向日葵が嫌いになっていた。


向日葵だらけの駅に降りて、おばあちゃんの家まで歩く。遠くもなければ荷物は多くない、日差しを遮るように雲が伸びていた事もあってそこまで苦では無かった。


「よく来なさったね、蛍子」


玄関で出迎えてくれたおばあちゃんの声。母の近くで私の名前を呼ぶのはタブーになっていて、今じゃ本当の名前を呼んでくれるのはおばあちゃんだけだった。


「いいの。私だってあの家を離れたかった所はあるし」


そう言いながら私は廊下を歩いた。向かうは突き当たりを右に曲がってまっすぐの部屋。


「やっぱり広いや」


なんて言う間に辿り着いた。持ち主を亡くした一つの部屋に。


「ひまり」の看板が提げられたドアを開くと、可愛らしいピンクのカーテンに白いカーペット。小さなベットと綺麗に教科書が並ぶ勉強机。


「ほとんど、変わってないんだね」


なんて、仏壇を見ながら言ったけど、おばあちゃんは頷くだけだった。


それからは家の中の空き部屋に通してもらって、予定通りに宿題に手を付けている内に日は暮れて、夕ご飯の手伝いに向かった。


「今日は冷やし中華だから大丈夫よ、勉強お疲れ様ね!」


そう労ってくれるおばあちゃん。しかし、それでは私が申し訳ない。


「いいや、私も手伝うよ」 

「そうそう!今日は晴れ続きで星が綺麗よ!縁側で見てみたら?」


小さく跳ねながら、それでも楽しそうに背中を押すおばあちゃんに連れられて。結局断り切れなくて。


私は一人、縁側に座った。都会とは違う田舎の空気は爽やかで、眩しくない夜空に星は淡々と輝いている。


そんな星を見上げて、少し首が痛くなって、視線を戻した。


視線を下げれば見えたのは海だった。ふと、俯いた向日葵を思い出した。


向日葵が空を見ず、俯くのなら、

母の中に私が居ないのなら。

それなら、どこにいったっていいじゃないか。


ひまりは向日葵でもなく私は蛍じゃない。


そして何より、蛍は海には行かない。


そんなことを考えながら、私は草履に足を通した。


夜を照らす赤い灯台が、白く輝く砂浜が、青く揺れる水面が、何も変わらず続いていた。

一つ言うなら、遊泳制限のフロートが海上を漂っていて、海が狭く見えた。

足を付ければ温い水、足を進めれば冷えた水。どんどん進めばどんどん冷える。

ふと、冷静になった。身体が冷えて脳が覚めた。


「何やってるんだろ」


そう思って引き返そうとした。


けれど、それはもう、遅かった。

突如として、私は背中を引っ張られた。


浮力に抗えず、波が身体を振り回す。とうに足は付かなくなり、濡れた衣服が絡みつく。海岸が離れていく。超えてはいけない一線が近付いてくる。


必死にもがいた。手足をばたつかせ、水をかき分ける。しかし、水はどんどん冷えてゆく。身体はどんどん冷えてゆく。


そしてついに、身体が沈んだ。


見えない波に服を引っ張られて、方向が分からなくなって、息が出来なくて。


ついには意識が遠ざかる。

その時だった。


身体に襲う新たな感覚。先ほどの冷たさは嘘のような、とても暖かく、引っ張られるというよりは押し出すようなそんな感覚。


海の中、目を開けても何も見えない。けれども私は目を開けた。


開けなければならないと思った。


うすらぼんやりとした輪郭が見えた。


そこには、ひまりが居た。

きっとひまりだったと思う。


「ひまり!」


声にならない叫び声が泡となって消えてゆく。足掻くのを止め手を伸ばす。


「あと少し……!」


しかし、その少しが果てしなく遠い。

次第に流れも強くなり、水中で踏み止まれず、徐々に距離が離れていく。


「待って!待ってよ!」 


手を伸ばした時、全身を打った。私の身体は砂浜に打ち付けられ、爪の間には砂が詰まっていた。







「そりゃ、海憑きっていうやつさ」


そんな話を聞いたのは、次の日のお昼時、食べ損ねた冷やし中華をおばあちゃんが持ってきてくれた頃だった。


「海……月?くらげの仲間?」

「 まぁ、合ってるんだけども。そりゃムーンの方だね、憑きは憑依の方さ」

「お化けって事?」

「またお化けとも違う。いわば迷信のようなものさ」


そう言いながらお箸を渡されて、とりあえず食べることにする。


「海憑きってのはね、くらげが死んだ人に見えるっていうものさ」

「死んだ人に?」

「ああ、海の中で目を開けると、ぼんやりしてるだろ?そこに元々不安定なくらげが入ると、人間ってのは不思議なもので、輪郭は見えても正体が分からない。そんな時、つい頭の中で想いの強い人に補完してしまうのさ」


そう言われると、確かにそうだった気がする。

親の発言を勘ぐって、向日葵にひまりを重ねて、挙げ句の果てには海に入ってくらげとひまりを重ねて。


「私、本当に馬鹿だったなぁ」

「蛍子ちゃんは良い子だよ、馬鹿は風邪を引かないっていうんだから」


いいや、それでも私は馬鹿だよ。


びしょ濡れで帰って、風邪を引いて、迷惑かけて。私は馬鹿だ。


なんて言葉を冷やし中華の最後の一口と一緒に飲み込んだ。言っても困らせるだけだから。


「ごちそうさまでした。ごめんね」

「大丈夫よ、しっかり治しなさいね」


その声を最後におばあちゃんが部屋を出た瞬間に、深いため息が漏れた。


「何やってんだろ私。疲れてたな」


昨日のことを思い出しては自嘲する。


「さっさと治して、宿題やらなきゃ」


毛布を肩まで被ってから、見上げた天井。お腹に何か入れれば眠れると思ったけれど、そうはいかなかった。


海の中を揺蕩う海憑き。

海の中で死んだひまり。


どうにも、無関係のようには思えなかった。


輪郭は見えても、正体は分からない。

そんな時、つい、頭の中で補完する。


向日葵に囲まれて泣いていた母に、私はしっかりと見えていたのだろうか。

涙ぐんだ眼で、私の姿は見えていたのだろうか。


……「蛍子」を「ひまり」に補完したのだろうか。


考えれば考えるほど、心の海は澄んで行く。


ひまりの輪郭が、いや、海憑きの正体がしっかりと分かる。

ひまりがもう居ないって事も、分かっている。



「……お母さんとも、話そうか」


姿勢を横に向け、楽な体勢を取る。


その時ふと、目に入った一輪の向日葵は、庭先で太陽に向かって花を咲かせていた。


初めて向日葵を綺麗だと思った。