桜の蕾が花開き、風と踊り空へ舞う。
月曜の空は爽やかに晴れ渡り、入学式を経た新入生や入社式に参加した新社員といった新生活を始めた人々が歩みを進める。
そんな時、俺は橋の下で一つの植物を眺めていた。
いや、これは植物と呼んでいいのか。
アロエの様な肉厚な葉を四方に伸ばし、燦々と輝く太陽の光を全身に浴びる彼女。鮮やかな緑色に混ざってまだら模様の赤が入った彼女は、俺と橋の二つの影から出る様に葉を伸ばしていた。
「一年生植物だね」と隣の友人が声を出した。
「言われなくとも知ってるよ」
一年生植物。その名の通り小学一年生の様な見た目をした植物の事であり、茎が人の様に動く事から意思のある命として、正式に認められた植物たちの事だ。
「それにしてもこんな所に生まれるなんて、可哀そうだね」
「なんだ?助けるのか?」
「まさか。無干渉指定生物に何かしたらその時点で僕らは罪人だろ」
「勝手に俺まで巻き込むんじゃねぇよ」
「とにもかくにも、見つかる前に学校に行こうか」
「そうだな」
そんな会話を交わしながら、僕らは学校へと向かう。
無干渉指定生物。あらゆる干渉もその種の生活を妨げるとされ、干渉すること自体が禁じられている生物の事だ。
頭では分かっていた。けれど、どうにも引っかかっていた。
「春休みも明け、君たちももう高校三年生、しっかりと切り替える様に!」
そんな教師の言葉を右から左に流して、僕が向かうのは第一理科室。
「よぅ、金川。相も変わらず馬鹿みたいな顔してるな」
「先生今日は目のクマがより一層酷いですね」
「お前はいつもどうでもいいことにはすぐ気が付くな」
なんて会話を先生と交わしながら、教室の隅に居る友人に駆け寄った。
「朝ぶり。何の本を読んでるんだ?」
「朝ぶり。明日から始まる数学Ⅲの教科書」
「谷口は相変らず真面目だな!金川も見習ったらどうだ?」
ケラケラと笑いながらそう言う先生。
その背後に見える小さな影。去年より身長が少し伸びてる気がする。
「あのー、山里先生?今日の活動は何でしょうか?」
「おお!岬ちゃん!ちょっと身長伸びたな?それじゃ席に座れー」
手を叩きながら先生がそう声を上げると、僕らは急いで席に着く。
これが僕らの部活。今年で廃部が決まってしまった科学研究部。
その最後の一年の、最初の活動日。
「そんじゃまずはこの科学研究部、最後の一年に何をするか決めるか!」
「まぁ、発表会に向けて何をするか。って事ですよね?」
「その通りだぜ!岬ちゃん!」
「最期なら何か大きなことをしたいですね」
そんな事を言いながらこちらを見る谷口。
「俺も同意見だ!つーわけでなんか案はあるか金川!」
三人から向けられた期待の視線。
「いやぁ……すぐに思いつくものでもないだろ。慎重に行こうぜ」
そんな三人の期待を、あえて俺は裏切った。
「金川なら言うと思ってたんだけど」
放課後の帰り道、そんなことを言われた。
「言う訳ないだろ、最後だからってふざけることはしねーよ」
「でも、何か気に掛けていたように見えたけど」
「それでも、俺はあそこで一年生植物の話題は出さねえ」
「どうして?」
やけに興味を持つ谷口に対して、俺はどうしようもなく素直な目をしていたと思う。
「橋の下、行こうか」
谷口がそう言いだしたのは、恐らく俺が無意識のうちに橋の下を見ているのに気付いたからだろう。
それに反論する気は、不思議と起こらなかった。
谷口と共に降りる橋の下。陽が沈む茜色の空の下。
葉っぱを身体全体に巻き付けるようにして、彼女はそこに生きていた。
「体力温存の為に、どうやらもう眠っているようだね」
「けどなんか、少し赤色の部分が増えてる気がする」
「そうかな?夕暮時でそう見えるだけだと思うよ」
谷口はそう言った。けど、俺には分かる。
あの肉厚で鮮やかな緑色だった葉が少し萎えており、まだら模様の赤色が少し大きくなっている。
「この橋は人が良く通る。見つかる前に離れようぜ」
「もう良いの?」
「あぁ。俺らはやっぱり干渉すべきじゃない」
「……そうだね」
夕暮の茜色と、彼女のまだら模様の色が、心の中で重なった。
その風景が目に焼き付いたのか。午前三時、未だに俺は寝れずにいた。
一年生植物。その名の通り小学一年生の様な植物。
どれだけ恵まれた環境であっても、一年経てば枯れてしまう植物。
それを植物という身体の限界と呼ぶ者もいれば、環境の問題であると指摘する者もいる。
普通の場所で芽吹き、充分な日光を浴びながらその生を謳歌しても、一年生植物たちは一年間しか生きることが出来ない。
ならばあの環境なら、日光の届かないあの橋の下なら。彼女は後どれくらい生きられる?
色鮮やかな緑に混じったあの赤色は、後どれくらいでその緑を喰いつくす?
おそらく一ヵ月も、いや、数日の内に彼女はきっと枯れる。
あの赤色は今もなお緑を喰っている。
「どうでもいいことにはすぐ気付く」
先生にも言われた自分の性格が、一つの命の終わりを悟らせた。
確かに一年生植物の命なんて、普通はどうでもいいのかもしれない。
けれど、命が長くない事を知りながら、見なかった事にできるか?
無干渉指定生物と銘打たれ、干渉する事すら禁じられている生物。
とはいえ、「命を見捨てた」という事はどうでもいいことなのだろうか。
「いやぁ……よくねぇよな」
夜中、父さんと母さんを起こさないように俺は準備を進めた。
庭にある空いた植木鉢とスコップを握りしめて、靴紐をきつく縛って、ライトの乾電池を確認してから、俺は真夜中の街に繰り出した。
全ては見つけてしまった命の為に。
初めて気付いた。大切な命の為に。
いつもより暗い道は俺を道に迷わせて、背負った荷物の重さの分だけ一歩踏み出すたびに足が悲鳴を上げる。
そうして着いた橋の下で、息切れしていた俺は息を整えながらライトで彼女の姿を探す。
「ちくしょう……どこにいたっけ?」
踏みつぶさぬように注意しながら足元を照らし探し続けていると、彼女の姿がチラリと写った。
「そこか!」
勢いよく照らしたその場に、彼女は居た。
大きく葉を広げ、日光を求める彼女がそこに居た。
閉じていたあの姿を想像していたからこそ、開いた口が塞がらなかった。
「お、おい。まだ朝じゃねぇ。太陽はまだ出てねぇんだ。閉じろ!」
そう言う俺に、彼女は葉を向けた。
「こ、これは太陽じゃねぇんだ。動くな。動かないでくれ……!」
しかし、俺の声を無視するかのようにライトに向かって葉を振り続ける彼女。そこで俺はようやく背負っている物を思い出した。
「そ、そうだ!日の当たる場所に移動させてやる!」
背中からスコップを取り出して、植木鉢を地面に置いた。
「動くなよ……!」
彼女の葉を巻き込まないようにスコップを地面に差し込もうとした。
その時だった。
「始まってそうそう深夜徘徊ってか?」
その声に振り返った瞬間、見えたのは昨日より酷い目の下のクマ。
いつの間にか俺の後ろには、山里先生が立っていた。
「や、山里先生……?」
「よぉ、深夜徘徊とは頂けねぇが、顧問だからな。見逃すぜ」
「だが、無干渉指定生物に干渉するのは、俺が許しても国が許さん」
そう言うと山里先生は俺のスコップをすぐさま掴み、奪い取った。
「植物ってやつは日光も必要だが地下からの水分も必要なんだ、いわゆる光合成ってやつだな。水と二酸化炭素を光エネルギーでデンプンに変えて、そいつで生活してるんだ」
「そ、それは流石に俺でも分かるぞ」
「それが普通の植物だ。じゃ、普通の植物と一年生植物の違いはなんだ?」
そう言われると少し頭を悩ませたが、一番考えられる事としては。
「人間の形をしていること」
「その通り、しかも自由に動くと来た。じゃあ次。こいつらは、一つだけ人間と違うところがある。分かるか?」
そう言われてから彼女を見る。ずっとライトに向かって葉を伸ばす彼女が、人間と違うところを探す。
「腕が葉っぱ」
「それもあるが違う。ヒントはこの場所だ。何で彼女はここにいる?」
「何でって。彼女はここで生まれて、ここに生えているから……」
そこまで口にしてから、ようやく俺は気付いた。
「気付いたか」
「……動けないんだ。彼女たちには脚がない」
「半分正解。半分不正解。彼女たちには脚がある。しかし、それは彼女たちにとって動かせるものじゃないんだ」
「だから俺が動かそうと」
「金川、お前は地中のどこに脚があるのか分かるのか?」
言われてみればそうだった。根の事まで考えてなどいなかった俺は彼女の根元からスコップを差し込もうとした。
「スコップ何て入れたら脚を切る危険性があるだろう」
「で、でも死ぬよりは」
「もうここまで日照不足の症状が出てれば、移したところで間に合わない。むしろ脚を傷付けて彼女を苦しめる可能性もある」
自分の考えが、自分の覚悟が、何もかも先生によって潰されていく。
「じゃあ俺はどうすればいいんだッ!」
感情が分からない。怒り、悲しみ、疲れ、葛藤、苛立ち、無力。様々な感情が入り乱れて、出て来たのは獣の様な慟哭。
「何もするな。ただ、見つけてしまったからには何もせず、見届けるしか俺たちには出来ないだろう」
「なんで、先生は知ってたんだ」
「谷口と岬ちゃんから連絡があった。一つは金川くん今日変じゃなかったですか?ってのと、橋の下のこの子の事さ」
何だよ。全部お見通しだった訳か……
やって来た準備も、固めた覚悟も、何もかもが徒労に終わった気がした俺は膝から崩れ落ちた。離したライトが転がり、彼女が少し驚いた。
「俺のやった事の意味は何だったんだよ……」
「まぁ、彼女を見れば分かるんじゃないか?」
そう言われて彼女を見た。
彼女は笑顔のままで、手を振っているそのままで止まっていた。
「彼女がどこを向いてんだ、しっかりと見ろ!」
そう言われて、改めて見直して、彼女と眼が合った。
彼女は、その眼は、彼女の手は、確かに俺に向かっていた。
「え……?」
「一年生植物が手を伸ばすのは太陽だけだとされている。まぁ、それはあくまで定説であって真実ではないが」
「お前に手を伸ばすってことはそいつにとってお前も太陽みたいなもんだったんじゃねえのか?」
そう言いながら山里先生はスコップを俺に返すと、坂道を登ってゆく。
「あくまで人間の、勝手な解釈だがな。それじゃ、また今日。遅刻すんなよ!」
「なぁ先生!」
「あぁ?なんだ?俺は眠いんだ!」
目をこすりながらそう言う先生はあくびの一つも出さなかった。
「俺さ、この子が生きていたことを発表したい」
「おいおい、中々危ない橋渡るじゃねぇの?」
「良いだろ!もう最後なんだからさ!」
俺がそう言うと、先生は大きく笑って。
「そうさな!慎重に行こうぜ!」
そのまま暗闇の中へと消えていった。
疲れた身体を起こしながら、俺もまた歩いてゆく。
彼女が居た日常から、彼女が居なくなった日常へと。
帰るころにはもう目が暗闇になれていて、拝借したものを全て元に戻してから、自分もベッドへと身体をゆだねた。
結局、今日の朝に跳び起きた俺は眠い目をこすりながらもいつもの時間に家を出た。
谷口と合流していつもの通り登校したけれど、あいつが橋の下の彼女の事を話すことは無く、俺もまた橋に視線が移ることも無くなっていた。
先生はビーカーにコーヒーを淹れながら部活を行い、飲み切った後にいきなり立ちあがった。「行くぞ、金川」の言葉に、俺は大きく答えた。
橋の下に着いてからは大変だった。谷口と岬さんに経緯を話し、最後の研究発表会に彼女の事を発表したいと言うと、二人とも協力することを即答してくれた。
彼女を慎重に掘り起こし、泥を落とすと彼女の細い脚が姿を現した。
「この子をハーバリウムで美しくしたい!」
岬さんのその発言を否定する者はいなかった。ボトルの中の水分をしっかりとふき取り、ピンセットで花を入れ、次に彼女を入れる事で、彼女は美しい花のドレスを身に纏い、最後に橋を模した板を入れた。
その後、オイルが花を潰さないように慎重に入れて空気を抜く事でようやく完成した彼女は、すっかり綺麗になった。
研究発表会に植物標本として出した。名前は生活の干渉。人間が生活の為に作った橋が、無干渉指定生物である彼女の生活に干渉しているという少し皮肉っぽい名前になった。
これに関して、国の科学者の中で賛否両論となり、大きな論争をもたらした結果。俺らの研究発表は特別賞を受賞したと同時に命の冒涜だとして科学研究部は強制解散させられた。
「という訳で。本日を持ちまして科学研究部を解散します」
そう言った山里先生の両手にはシュッコンカスミソウ。そしてその翌日に山里先生は新しく植物研究会の顧問としての立場を確立していた。
「谷口が唐突に言いだしたんだ」
そう言った山里先生は慣れた手つきで花壇に花を植えていく。
入ったのは結局科学研究部の三人だけで、周りから色々と揶揄された。
けれど、俺はこれくらいで丁度いいと思う。
第一理科室の眠り姫を知っている、これくらいで。