頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

うそとあしをつく。

「僕らは二本の足で,しっかり立っています」

 なんて言える人は何人いるのだろうか。

 人という感じは、支え合って出来ている。とはよく言うけれど、一画目を自我とするなら、二画目は一体全体なんなんだい?

「一画目も二画目も人だよ」なんて言わないでくれよ。漢字の造形にその漢字が入ってくるなんて可笑しいと思うんだ。「人という漢字は二人の人が支え合っている図なんだよ」って言われても、x=2xが成り立つのなんて「おっきな粘土1こは、ちっさな粘土2こ分です」くらいしか思い付かない。

 最初の話に戻ろうか、「一画目を自我とするなら、二画目は一体全体なんなんだい?」までね。分かりづらいね。今度からダカーポを付けるよ。

 話したがりというのはめんどくさいもので。疑問一つを挙げるにしたって,ある程度自分の中で答えを出してから、疑問を改めて提示する。自分と大衆の答えを擦り合わせるために。

 自我と呼んだ。言葉の定義としてまとめるなら、それは「現実的に考える真」に生きる僕だ。

 ならきっと、支える二画目は、「幻想的に黄昏れる嘘」に生きる僕だと思う。

 真に生きる僕と、嘘に生きる僕。この僕らを持って,しっかり私は立っていると思う。現実的に生きねばならない中で,現実的に楽をするために,自分に嘘をつく。そうすることで、少なくとも22年間は生きている。立っている。

「嘘をつくのは悪いことだ」と言う人が居る。それは当然のことで,馬鹿らしいとは言わない。ただ、その「悪い」の理由を語れない人間は単に「嘘をつかれると気分が悪くなる」から「嘘をつくのは悪いことだ」と言うのだと思う。

 僕が言うのはただ一つだけ。「現実を直視した時、その後に、自我を潰す事を選択した時、あなたは同時に自分に嘘をつく選択をしている」という事。それは決して悪ではない。それは自己完結の嘘であるからだ。他人に干渉しない。己が身を削って現実の歯車の潤滑油とする優しさの嘘だとも言える。

 だから、悪ではないと言える。

 ただ、精神を削る毒ではある。

 そうしてまで立つことに、果たして意味はあるのだろうか。価値はあるのだろうか。きっと求めても限りが無い。湯呑みが割れて初めて人はお茶の熱さを知るものだ。

 ふと考えることがある。もし、「人」という漢字が、座ってゆっくりと憩う様子を表していたら、もっと楽だったのだろうか。と。

 考えても無駄なのだろうけれど、今は。せめて今だけは。幻想的に黄昏ていたい。