頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

闘病しない日記。

 月一で入れ替わる躁鬱の人格が、健忘症でその記憶を持ち運びえない。なんて状況を異常と捉えずなんと呼ぶのか。

 高校3年の時期から,かれこれ過ぎた幾星霜。それっぽいことをしれっと書くタイプの自称物書きになった。ものを書くにつれ,自分の書きたいように書けるスペースが欲しいと言うことで。このサイトがここにある。

 けれど、読み返してみると、小説的なものもあれば、意味の分からない狂った散文も見受けられる。私の正と負の二面性を詰め込んだようなサイトだ。

 それはさておき、昨今のインターネットでは闘病日記が着目されつつあると言う。この世に確かに「存在していた」のを示すサイト。世界へ焼き付いた命の灯火。

 故人の思慮を推察するのは、「そう思っていて欲しい」という。どうあがいても自分のエゴになるけれど。それを考慮した上で,きっと闘病日記の中で障子の張り替えをしていたり、高菜漬けを作っていたり、妻の運転でドライブする彼ら彼女らは、「幸せだったと思う」

 このサイトの話の後に、闘病日記の話をすると、早くも「このサイト=闘病日記」という関係が見えてきそうだが、僕もこのサイトも、闘病日記のような闘い抜いた確固たる覚悟が持つ燦然とした輝きなど、存在しない。

 このサイトは最初にも書いた通りで、書きたいものを書くスペース。少し言葉を加えるならば、その時その時の自分が書きたいものを書くスペースだ。

 最近の流行りであるTwitterInstagramで書かないのは,ああいう繋がりありきの言葉の場では、どうにも人目を気にしてしまうからだ。

 自分にとってこのサイトの良いところは「普通に使っていては絶対に目に入らない」というところだ。トレンドとか、リツイートとか。いいねとかで拡散される事もない。こんな人知れず書いてる文を取り上げる要素が無い。

 だからこそ、人目を気にせずに書ける。それに、こんな偏屈な場所で書いてる文を調べたり、はたまたどこかで目に入ったのか、そこまでは知らないけれど。見に来る物好きもアクセス解析で分かる。

 非常に肩の荷が降りた状態で書ける。そんな状態で病気のことなど書くよりも、私にしか見えない私の世界を書きたい。

 だから、このサイトは変に二つの病を抱えた変な男の、変な文を書いてる闘病しない日記なのである。