頭蓋解剖物語

ボロボロ書きます。剥がれ落ちる私を。

もとめたがり。

 一人前。というのは、果たしてどこからなのだろうか。言われてみて、スッと答えられる人は果たして一人前なのだろうか。

 少し前、駅にて「今日の仕事は楽しみですか?」と言う文字の広告に批判が殺到する。という事があった。きっと、これに怒りをぶつけた人は、長い間、一つの仕事に打ち込み続けた「一人前になった」とされる人達だと思う。

「楽しみじゃねえよ」と声を挙げる大人達。

「今の世の中、残念ながら。なかなか夢の仕事に就くのは難しい”らしい”」と、感じざるを得ない子どもたち。

 はてさて、一人前とはなんぞや。

 人生、生きてりゃたまに聞く。よく出来た言葉がある。「人生に模範解答なんて無い」という非常に肩の荷が降りる言葉だ。

 なぜ人生に模範解答が無いのか。それは人生の良し悪しを決める基準となる「普通の人生」を、定義することがままならないからだ。サラリーマンになって家族を養えば普通?実家の農家を継げば普通?大学を卒業して大手に就職すれば普通?普通の高校に通う?普通の高校って何?普通とは?人生とは?人間とは?僕は一体誰だ……?

 考えすぎるとキリがないのだ。普通なんてのは。絶対的な「普通」の定義なんてない。だから皆、共通点を探し出しては、「普通」を作り出して安心するのだ。そして、その共通点を持ち得ない人間を、丸々一つ異質だと捉えるのだ。「皆、髪の毛が生えているね」「お前は生えてないね」「お前それおかしいよ」「髪の毛が生えてない人をハゲと呼ぼう」みたいなね。怖いね。性根も毛根も。

 では一人前になる。というのはどういうことか。僕は「普通を定義できるようになること」だと思う。

 先ほど,絶対的な普通の定義なんてない。と申し上げた。そして、共通点を探し出して普通を定義する。ということも申し上げた。一人前になる。それは共通点を探し出し、普通を定義できる事だと思う。そして、自分の定義した普通で、物事を判断できる人の事だと。私は思う。

 なぜ断言しないのか。それは途中に言った。僕の答えが合っていると。証明するための模範解答なんて、無いからだ。だから思うだけ。書くだけに留めておく。それと、私は一人前じゃない。スッと答えられるわけでも無いし、こんなのが一人前なら世の中は百人力まみれだ。

 あくまでも、一個人の解釈と捉えて欲しいし、皆の中の一人前も、聞いてみたい。

 私ももとめたがりなのだ。

闘病しない日記。

 月一で入れ替わる躁鬱の人格が、健忘症でその記憶を持ち運びえない。なんて状況を異常と捉えずなんと呼ぶのか。

 高校3年の時期から,かれこれ過ぎた幾星霜。それっぽいことをしれっと書くタイプの自称物書きになった。ものを書くにつれ,自分の書きたいように書けるスペースが欲しいと言うことで。このサイトがここにある。

 けれど、読み返してみると、小説的なものもあれば、意味の分からない狂った散文も見受けられる。私の正と負の二面性を詰め込んだようなサイトだ。

 それはさておき、昨今のインターネットでは闘病日記が着目されつつあると言う。この世に確かに「存在していた」のを示すサイト。世界へ焼き付いた命の灯火。

 故人の思慮を推察するのは、「そう思っていて欲しい」という。どうあがいても自分のエゴになるけれど。それを考慮した上で,きっと闘病日記の中で障子の張り替えをしていたり、高菜漬けを作っていたり、妻の運転でドライブする彼ら彼女らは、「幸せだったと思う」

 このサイトの話の後に、闘病日記の話をすると、早くも「このサイト=闘病日記」という関係が見えてきそうだが、僕もこのサイトも、闘病日記のような闘い抜いた確固たる覚悟が持つ燦然とした輝きなど、存在しない。

 このサイトは最初にも書いた通りで、書きたいものを書くスペース。少し言葉を加えるならば、その時その時の自分が書きたいものを書くスペースだ。

 最近の流行りであるTwitterInstagramで書かないのは,ああいう繋がりありきの言葉の場では、どうにも人目を気にしてしまうからだ。

 自分にとってこのサイトの良いところは「普通に使っていては絶対に目に入らない」というところだ。トレンドとか、リツイートとか。いいねとかで拡散される事もない。こんな人知れず書いてる文を取り上げる要素が無い。

 だからこそ、人目を気にせずに書ける。それに、こんな偏屈な場所で書いてる文を調べたり、はたまたどこかで目に入ったのか、そこまでは知らないけれど。見に来る物好きもアクセス解析で分かる。

 非常に肩の荷が降りた状態で書ける。そんな状態で病気のことなど書くよりも、私にしか見えない私の世界を書きたい。

 だから、このサイトは変に二つの病を抱えた変な男の、変な文を書いてる闘病しない日記なのである。

うそとあしをつく。

「僕らは二本の足で,しっかり立っています」

 なんて言える人は何人いるのだろうか。

 人という感じは、支え合って出来ている。とはよく言うけれど、一画目を自我とするなら、二画目は一体全体なんなんだい?

「一画目も二画目も人だよ」なんて言わないでくれよ。漢字の造形にその漢字が入ってくるなんて可笑しいと思うんだ。「人という漢字は二人の人が支え合っている図なんだよ」って言われても、x=2xが成り立つのなんて「おっきな粘土1こは、ちっさな粘土2こ分です」くらいしか思い付かない。

 最初の話に戻ろうか、「一画目を自我とするなら、二画目は一体全体なんなんだい?」までね。分かりづらいね。今度からダカーポを付けるよ。

 話したがりというのはめんどくさいもので。疑問一つを挙げるにしたって,ある程度自分の中で答えを出してから、疑問を改めて提示する。自分と大衆の答えを擦り合わせるために。

 自我と呼んだ。言葉の定義としてまとめるなら、それは「現実的に考える真」に生きる僕だ。

 ならきっと、支える二画目は、「幻想的に黄昏れる嘘」に生きる僕だと思う。

 真に生きる僕と、嘘に生きる僕。この僕らを持って,しっかり私は立っていると思う。現実的に生きねばならない中で,現実的に楽をするために,自分に嘘をつく。そうすることで、少なくとも22年間は生きている。立っている。

「嘘をつくのは悪いことだ」と言う人が居る。それは当然のことで,馬鹿らしいとは言わない。ただ、その「悪い」の理由を語れない人間は単に「嘘をつかれると気分が悪くなる」から「嘘をつくのは悪いことだ」と言うのだと思う。

 僕が言うのはただ一つだけ。「現実を直視した時、その後に、自我を潰す事を選択した時、あなたは同時に自分に嘘をつく選択をしている」という事。それは決して悪ではない。それは自己完結の嘘であるからだ。他人に干渉しない。己が身を削って現実の歯車の潤滑油とする優しさの嘘だとも言える。

 だから、悪ではないと言える。

 ただ、精神を削る毒ではある。

 そうしてまで立つことに、果たして意味はあるのだろうか。価値はあるのだろうか。きっと求めても限りが無い。湯呑みが割れて初めて人はお茶の熱さを知るものだ。

 ふと考えることがある。もし、「人」という漢字が、座ってゆっくりと憩う様子を表していたら、もっと楽だったのだろうか。と。

 考えても無駄なのだろうけれど、今は。せめて今だけは。幻想的に黄昏ていたい。

うしろひたむき。

 外を歩くことが増えたのは,4年越しに少しだけ、変わった自分を見せてやりたいから。帰る基準の一つになっていた補導は実際問題あまり見る光景ではなかったし、大人になって責任が自分に帰属する。と考えてから私は夜を歩くようになった。

 夕焼け小焼けの小焼けとはなんだろうか。なんてしようもないことを考えながら、茜の空の下を歩く。子供の頃、背に刺す茜を感じながら帰路につくものだから、子供を見送った茜が、30分足らずで黒い夜に変貌することを知らなかった。被さる黒を払うハイビーム。開いてなかった店の夜の顔。茜を駆けてたはずの鴉は、凝らせばゴミをつついていた。

 酒もタバコもSNSも。今ではぱったり、息を潜めた。とっくのとうに落ちた酒だけ、たまに言われて注ぐだけ。キツいアルコールの匂いが鼻を掠めるだけ。

 歩きながら思い返す。古き良き幼少期。楽しかった頃の記憶。あの日の友とはすれ違ってて、こんな私とは打って変わって、ついぞ4月に飛び立って。

 いつからこんなに差が付いたのか。追い求めるにも明白だ。きっと私は満足していた。立派な目標を立てて、遂行するための余裕を持って。将来を確立した今の自分が。将来の自分よりも愛おしくて仕方がなかった。

 後ろは気にしていなかった。しかし前も,見ていなかった。上に掲げたタスクに一目惚れしていた。だからずっと、足踏みしていた。

 ここからは、きっといつまでも。泥の道。跳ねた雫も、足跡も、乾いて残る。軌跡の証。知って変われる、なんて毛頭。思っちゃいない。のだけれども、きっと。見える色くらいは変わるさ。なんて信じて。

雨を浴びる。

 合羽の上を滑る雨粒、履き慣れないブーツで水溜りを踏み鳴らす。両手を広げれば広がる雨音。傘の中に広がる、雨の世界から切り取った自分だけの世界も好きだが、真っ向から浴びる雨の世界の青さも好きだ。

 見上げる空は深い灰色。星を数える隙間も無い空を見つめる視界の隅で、揺れる窓掛けと人差し指。人の世界にやつらは蔓延る。その窓の内側から、僕の世界を垣間見る。

 私が傘で雨の世界を切り取るように、彼らもまた、言葉で私の世界を切り取る。

 予報を見ればよかったのに。

 折りたたみ傘を忍ばせればよかったのに。

 また始まった黒い雨。「不幸」と「楽観」のfly-by.

 同じ世界に居ないからこそ、感覚の誤差で地が擦れる。「雨を浴びる」に異を申す。

 家の暖かさを知らない。照りつける太陽のような輝かしい絆も、虹の掛かる青い春の空も俺は知らない。されど、雨の浴び方を知っている。肌に張り付く冷たさがあるからこそ、温かいを知覚できる。知らない世界を無理やり切り取って、批判したって出るのは人間性の埃ばかり。

 傘をささない人間に、指をさす必要はない。

 手を差し伸べる必要もない。

 無理に、濡れる必要もない。

 

世界の繋げ方。

 僕のことを知っている世界がある。しかし、僕自身がその世界からリタイアしてしまって、悲しませてしまうとする時、その世界が僕の事を忘れて、笑い合って、繋がりあって、続いていくためにはどうすれば良いだろう。

 降りかかる仮の父からの暴力に耐えながら、ずっとずっと考えていた。分かった事といえば、等身大の私は夢見がちなロマンチストであるという事だけだった。

 出た答えは一つだけだった。端的にいうならそれは、自らを悪役とする事だ。いじめにおける集団心理の恐ろしさと団結力を私は知っている。それを利用すれば、私を悪と見做して非難する声が挙がる。挙がった声は混ざり混ざって一つの色になっていく。繋がっていく。

 これを書くことはきっとバカなのだろう。こんなことを考えるのはアホなのだろう。いわばマジック行う前に,種明かしをしているのと同義だ。悪を振る舞うので私を悪と見做してくださいなんて道理が通れば世の中、もっとちょろくて生きやすいさ。

 僕のことを知る世界は、僕が知っている世界でもあり、僕が愛してやまない世界でもある。嫌いな奴らに嫌われるのはそれこそ相手の声を摘むように殴りつければそれで良いが、愛する人間に嫌われるのは、きっと、死ぬほど辛い。

 全部嘘だと言えば、それで終わりだ。僕だけが終わって、僕以外は続いていく。言の葉を紡ぐ筆と我を折って、私はずっと続いていく。

 Twitterなんてやらないで、一人で生きていた方が気楽だったな。こんなに悩むのなら。これ以上、僕が私にTwitterを強いる事はない。夏の終わりを感じさせるのが涼風であるように。繋がりは、続くからこそ温かいのだ。

 周囲の声は色々とあるだろう。周囲の声はその年齢分、自分を生きて、積み上げてきた価値観を元に挙がる声だ。それらは人生において、不正解ではないのだと思う。ただ、自分の生き方においてはどうなのか。それは人それぞれだ。

 正しい物。というのは人によってすり替わる。仕方ないのだ。だって誰しもが、自分の世界を愛しているのだから。

 世界を繋げることとして、「悪役」というワードを用いた。他者にとっては害悪で、自分本位な悪役だ。自分以外の誰もが、その意図を測り得ない。その「悪役」を「最高の悪役」と呼んでいる時点で、私はもう自分本位なのだ。

 前を向いて歩けよ。振り返って「あったもの」を数えても、そこに戻りはしないんだから。今あるものを果てしなく抱きしめてくれ。私をその腕の中に入れないでくれ。

 Twitter上のキャラクターを演じる前に,私はあの家族の長男として,強くないといけないから。人の優しさの温かみは、私を弱くさせてしまうから。

夏の書留

 今年も夏が終わったと。そう感じたのは台風が過ぎ、取り残された湿り気が夏の熱を彷彿とさせた時だった。

 耳をすませば、世界は秋に囲まれていた。真向かいの縁側から響く風鈴も、甲高い蝉の音も。ひどく寂しくなったと共に、今年の夏は長崎に行ったり海に行ったり。車の移動による観光地巡りがメインで、外で騒ぐようなことのない。静かな夏だったと思う。

 あれほど長く感じた昼は、もう夜の中に浸っている。夏の刺すような日差しを受け止めていた入道雲。彼が居ない青空は、透き通っていて、少し足りない。

 緑の枝葉は痩せ細り、涼しい風が駆けてゆく。カランコロンと音を鳴らして、知らない世界が先走る。秋が時間を染めていく。知らない枯葉色に満たされていく。

 その陰で、夏は、消えていく。雲も蝉も風鈴も。グラスの中の氷のように、「居た事」だけを残して。限りなく透明に近くなっていく。

 きっとこの夏も、僕は忘れてしまうのでしょう。これから生まれてくる秋の風を感じる私にはなれない。

 だからこそここに。知らぬものこそ書けずとも、知るを書けぬは名が折れる。どうせ消えていってしまうのならば。僕も覚えている夏を。ここに。